1941(昭和16)生〜1953(昭和28)
悪がき時代

 幼少〜小6 ご多分にもれず、戦中戦後の混乱期。いつも飢餓感あり、何でもよく食べた。学校から帰ればカバンをほうり投げポケットに塩や肥後の守(小刀)を忍ばせ、近所の悪がきどもと一緒に・畑のトマト、キュウリ、スイカ等をとって食べたりしてよく怒られた。パッチ、メンダマ、コマ遊びや冬には近所の山でメジロ捕りなどで勉強した覚えもなく、また塾などもなかった。当時は久留米瀬下の水天宮5月子供の日、8月の花火大会、千栗八幡宮(直ぐ近くの佐賀県三養基郡北茂安)の3月おかゆさん(粥占い)、同9月の浮立(獅子舞)の四大お祭りが最高のたのしみであった。
  その当時を思うに名画「二十四の瞳」を地でいった様なもの。
          小学卒業生男子7名、女子12名。

1953〜1959(昭和34)
チョットおとなしく
勉強した時代

 城南中学、明善高校、この時代の適当な写真見当たらず。この頃真空管ラジオからトランジスターラジオへの移行期、更にはソ連のスプートニクの出現などで物理の授業に熱が入った思いでがある。また、リーダーズダイゼストの本の内容やレイアウトの斬新さ、アメリカ文化にはじめて触れ、一種のカルチャーショックを受けた。その別本での「寒い国から帰ってきたスパイ(又は男だったかな・・)」のそれこそ手に汗を握る内容、また「尼僧物語」などを一気に読破したようだ。


1959〜1965(昭和40)
それよりもう少し勉強し
青春を謳歌した時代

 久留米大学医学部在学中は自動車部、軽音楽部の二足のわらじでかなりの社会勉強もさせてもらった。九州内(一般大学間)でのラリー競技ではいつも下位を低迷したが、しかし、医学部のみの大学間ではいつも上位にいた。後者の部では年2回の定期演奏会や周辺の大学でのダンスパーティーの演奏をやり、メンバーは若い女性に結構騒がられていたようだ。

  昭和37年九州一周ラリーの際に宮崎市〜延岡にてトラックと側面衝突事故を起こし命拾いをする。その夏休みは反省をこめて久留米の自衛隊で合宿訓練(エンジンの分解、組み立てなど)をした。当時のエンジンは単純明快で、ディストリビューター、フロート、プラグ等のチョットした調整でエンジンの調子はいつも最高に保てたが、今のヤツはとてもではありません。
  昭和39年学生生活最後の演奏会模様。
 派手なユニフォームや譜面台は全部手作りでまかなった。ベニーグットマン、グレンミラー・・・などなど。今でもそれらの曲が流れるとツイ自分のトランペットのオタマジャクシ(譜面)が甦る。

  1966〜1976(昭和51)
   
それより、更にかなり?         努力した時代

 


 ある日の医局での
カンファランス風景

 久留米大学第一内科に約10年間在局。第3代目教授倉田 誠先生のご指導を受け、多くのことを学ばせてもらった。先生はあらゆる部野での深く且つ広いご見識の持ち主で、その中でも特に神経系にはご造詣が深かった。また、昭和40年前半までここの地方病である日本住血吸虫症の治療等にも力を注がれた。
 また常日頃「患者に学ぶ」を信条ととされ、診察の際の患者さんの微細な訴えや病状の見逃しを許されなかった。厳しい中にも
温厚な優しい教授であった。


   1976(昭和51.5)〜?
  
開業して非常に苦労している
時代

  
   ある夏の暑い日久留米水の祭で長門石町の本村の子供会みこしが表敬訪問をしてくれた。
 以上紆余曲折?しながらついに理想に燃えた若き医師、私メが昭和51年5月に父の跡を継ぎ開業したわけです(長門石町600番地より現住所へ移転)。現実はそう甘くはありません・・・、患者さんの診療や、特に経営です。薬の買い付けなどお金の出入りの勘定です・・・・赤字なのか黒字なのかサッパリわけはわかりません。今だもって、うちの上さんは苦労のしっぱなしです。
 開業10年目頃に医師会の役員を拝命(させらた)し、昼夜の出事が多くなり、大変な目に逢いました(約10年間)。そして約6,7年前頃よりこのPC(5台目)に懲り始め特にデジカメには相当の餌代が掛っているようです(約8台目)。今後もPCの買い替えや継ぎ足し、更には電子カルテなどなどのITにはまだまだいっぱいお金が掛りそうで、上さんの眉間のシワがまたまた増えそうです。

? 〜    
どうなるんでしょうか

 医療面での未来に多少、否かなりの不安があります。現在のように保険証一つあれば全国どこででも最高の医療を受けられる体制が保てるでしょうか。
 お金持ちはこちらの医療を、そうでない人は質を落として安上がりの医療を、などの差別が出現しないか危惧しているところです。更には街角のコインボックスに自分の症状の項目をピ・ポ・パしてお金を入れると下からガチャガチャッと音がして色んな薬、ドリンク等が落ちる・・・・、と云う具合に医者要らずの時代になるのでしょうか。
 

 
 しかし、ともあれ今後もわが内科・小児科 西村医院は
  地域医療への貢献や推進のため、「何でも気軽に相談できる」、
  「何かあったら直ぐ診る」、「必要であれば、より高度な

基幹病院や適切な専門医への紹介」など

いわゆる家庭医(町医者)を目指していくことでしょう。